東京高等裁判所 昭和27年(ネ)1310号 判決 1956年3月14日
控訴人 大谷観一郎
被控訴人 鈴木多一郎
主文
原判決を次のとおり変更する。
控訴人は被控訴人に対し東京都中野区天神町十七番地所在、家屋番号同町一一五番の四、木造瓦葺平家建家屋一棟建坪三十坪二合五勺を明渡し且つ昭和二十四年七月一日より昭和二十八年五月六日まで一ケ月金千二百円、同年五月七日より昭和二十九年三月三十一日まで一ケ月金三千五百六十五円、同年四月一日より昭和三十年三月三十一日まで一ケ月金四千百五十五円、同年四月一日より右家屋明渡済に至るまで一ケ月金四千四百六十八円の各割合による金員を支払うべし。
被控訴人その余の請求を棄却する。
訴訟費用は第一、二審とも控訴人の負担とする。
本判決は被控訴人勝訴の部分にかぎり被控訴人において執行前保証として金十万円又はこれに相当する有価証券を供託するときは仮りに執行することができる。
事実
控訴人訴訟代理人は、「原判決を取消す。被控訴人の請求(当審における各予備的の請求全部を含む)を棄却する。訴訟費用は第一、二審とも被控訴人の負担とする。」との判決を求め、被控訴人訴訟代理人は、「原判決を次のとおり変更する。控訴人は被控訴人に対し主文記載の家屋を明渡し且つ昭和二十四年七月一日より同年七月十八日まで一ケ月金千二百円の割合による賃料、同年七月十九日より昭和二十五年七月三十一日まで一ケ月金千二百円、同年八月一日より昭和二十七年十一月三十日まで一ケ月金二千四百八十二円、同年十二月一日より昭和二十八年三月三十一日まで一ケ月金三千四百九十五円、同年四月一日より昭和二十九年三月三十一日まで一ケ月金三千五百六十五円、同年四月一日より昭和三十年三月三十一日まで一ケ月金四千百五十五円、同年四月一日より右家屋の明渡済に至るまで一ケ月金四千四百六十八円の各割合による損害金を支払うべし。訴訟費用は第一、二審とも控訴人の負担とする。」との判決並びに仮執行の宣言を求め、もし右家屋全部の明渡の請求が認容せられない場合には、「控訴人は被控訴人に対し同家屋の東側(裏側)部分建坪十三坪五合(別紙《省略》間取図赤斜線部分)を明渡し且つ昭和二十四年七月一日より右家屋一部明渡済まで前同様の割合による賃料及び損害金を支払うべし。」との判決を、もし右家屋一部の明渡請求が認容せられない場合には、「控訴人は被控訴人に対し右家屋全部を明渡し且つ昭和二十四年七月一日より昭和二十八年五月六日まで前同様の割合による賃料、同年五月七日より右家屋明渡に至るまで前同様の割合による損害金を支払うべし。」との判決を、もし右家屋の全部もしくは一部の明渡の請求が認容せられない場合には、「控訴人は被控訴人に対し昭和二十四年七月一日より昭和三十年十二月七日まで前同様の割合による賃料を支払うべし。」との判決を求める旨申立てた。
被控訴人訴訟代理人は、
第一、第一次請求原因として、
一、被控訴人は控訴人に対し昭和十七年八月二十三日、その所有にかかる東京都中野区天神町十七番地所在の主文記載の家屋一棟を賃料一ケ月金二百十円毎月末日支払の約にて期間の定めなく賃貸し、その後当事者合意の上賃料を、昭和二十三年一月一日より一ケ月金五百円、同年九月一日より一ケ月金九百円、同年十一月一日より一ケ月千二百円に増額した。
二、被控訴人は従前右家屋より約二町を距てた同町十九番地所在の家屋(別紙目録第三の(イ))に居住して建築請負業に従事していたところ、今次戦争が苛烈となるにつれ、昭和二十年四月中埼玉県北足立郡朝霞町に疎開して一時間借生活をなし、終戦後の昭和二十一年五月頃に同町大字根岸字宮原千百六十六番地に古材木を使用してバラックを建て(同目録第一の(イ))同所においてその事業を継続していた。ところが同地は辺鄙な田舎で仕事も尠なく、一家の生計を維持するに足りる収入がないので、勢い仕事を東京都内に求めなければならないのであるが、同地から東京都内まで長時間を要し、不便であるばかりでなく、仕事も思う様に手に入れることができず、加うるに長男和善は東京都杉並区役所に勤務し、二女稜子は荻窪高等女学校に通学していたが、通勤通学にそれぞれ片道約二時間を要し、乗物の混雑と相俟つてその辛労一方ならず、その結果和善は呼吸器疾患に罹り、自宅に療養しているという悲惨な状態にある。
三、もともと本件家屋は被控訴人が昭和十七年七月中、自己の住居に使用する目的で他の貸家とは趣を異にし、資材を選び間取等も考慮して設計建築したものであつて、一時的に控訴人に賃貸したものに過ぎない。
四、しかるに控訴人は本件家屋にその長男とただ二人で居住し、しかも不在勝ちであるから、かかる広大な家屋を必要としないし、また移転するについて、控訴人に適当な小家屋を入手することもさして困難ではない。
五、以上のような事実関係にあるので、被控訴人は控訴人から本件家屋の明渡を得て、従前の営業地に戻り建築請負業を継続したく、昭和二十四年一月十七日控訴人に対し書留郵便をもつて借家法第一条の二にもとずき本件家屋賃貸借の解約の申入をなし、右郵便は翌十八日控訴人に到達したので、その後六ケ月を経過した同年七月十八日右賃借貸契約は解除となつたから、被控訴人は控訴人に対し本件家屋全部の明渡を求める。
第二、予備的(第二次)請求として、
もし本件家屋全部の明渡の請求が認容せられない場合は、被控訴人が従来主張するように控訴人は父子二人の小家族であり、本件家屋の西側(表側)六畳(洋間)八畳、二畳の三間及び玄関、台所湯殿並びにこれに附属する廊下、床、押入等の部分建坪十六坪七合五勺(別紙間取図赤線の西側部分)だけでその居住に十分であるから、その余の東側(裏側)部分建坪十三坪五合(同間取図赤斜線部分)の明渡を求める。
第三、予備的(第三次)請求原因として、
仮りに被控訴人の前掲第一記載の解約申入につき正当の事由がないとすれば、控訴人は昭和二十二年関東水産株式会社を創立し、本件家屋をその事業上の本拠として十三、四名の事務員を使用しているものであるから、控訴人は結局右訴外会社をして本件家屋を使用せしめているものであつて賃借家屋の転貸に外ならない。しかも右転貸については被控訴人は控訴人に対しこれが承諾を与えたことがないから、昭和二十八年五月六日の当審における口頭弁論期日に控訴人に対し民法第六百十二条により本件賃貸借解除の意思表示をした。したがつて右賃貸借契約は同日かぎり終了したから、被控訴人は控訴人に対し右家屋全部の明渡を求める。
第四、賃料及び損害金の請求について、
控訴人は本件家屋に対する昭和二十四年六月末日までの賃料の支払をしたが、その後の賃料もしくは損害金の支払をしていない。
一、第一次の請求原因が認容せられる場合は、被控訴人は控訴人に対し昭和二十四年七月一日より同月十八日まで一ケ月金千二百円の割合による賃料、同月十九日より昭和二十五年七月三十一日まで一ケ月金千二百円、同年八月一日より昭和二十七年十一月三十日まで一ケ月金二千四百八十二円、同年十二月一日より昭和二十八年三月三十日まで一ケ月金三千四百九十五円、同年四月一日より昭和二十九年三月三十一日まで一ケ月金三千五百六十五円、同年四月一日より昭和三十年三月三十一日まで一ケ月金四千百五十五円、同年五月一日より右家屋明渡済に至るまで一ケ月金四千四百六十八円の各割合による賃料相当の損害金の支払を求め、
二、第二次の請求の認容せられる場合は、被控訴人は控訴人に対し、昭和二十四年七月一日より同月十八日まで一ケ月金千二百円の割合による賃料、同月十九日より右家屋一部明渡済に至るまで前項の各割合による賃料及び賃料相当の損害金(以上の賃料及び賃料相当損害金の割合は賃料額を右家屋の賃貸を継続する部分と明渡部分の坪数をもつて按分したるものであつて、前者は三〇・二五分の一六・七五、後者は三〇・二五分の一三・五である)の支払を求め、
三、第三次の請求原因が認容せられる場合は、被控訴人は控訴人に対し昭和二十四年七月一日より昭和二十八年五月六日まで右第一項の請求と同一割合による賃料及び同月七日より本件家屋明渡済に至るまで同項の請求と同一割合による賃料相当の損害金の支払を求め、
四、仮りに本件家屋に対する明渡の請求が全部認容せられない場合は、被控訴人は控訴人に対し昭和二十四年七月一日より当審における本件口頭弁論終結の日である昭和三十年十二月七日まで第一次の請求と同一割合による賃料の支払を求める。
なお本件家屋の適正賃料額については、右家屋は昭和十七年七月の建築にかかり、賃貸当時の契約賃料は一ケ月金二百十円であつたから、昭和二十四年七月当時の公定賃料額は一ケ月金千七百六十四円が相当であつたが、昭和二十三年十一月に当事者間において合意の上、一ケ月金千二百円に改定し、爾来そのままになつていたので、昭和二十四年七月一日より昭和二十五年七月三十一日までは一ケ月金千二百円の割をもつて請求する。昭和二十五年八月の公定賃料額の改定により家屋の賃貸価格金五百十八円に対する三・五倍の金千八百十三円と本件家屋の敷地九十九坪一合七勺に対する地代(五十六級坪当月額金六円七十五銭)金六百六十九円の合計金二千四百八十二円となるから同年八月一日より一ケ月同額の割とし、昭和二十六年十月及び昭和二十七年四月の同賃料額の改定により、昭和二十六年十月よりは一ケ月金二千百八十四円、昭和二十七年四月よりは一ケ月金千九百九十七円となつたが、従前の賃料より低額であるから従前の額に従うものとする。(物価庁告示第一八〇号第二家賃二の1)。昭和二十七年十二月一日の同賃料額の改定により、家屋の価格金五十五万六千八百円に対する千分の三・七の金二千六十円、金二十四円(昭和二十七年建設省告示第一四一八号による改定)に家屋坪数を乗じて得たる金七百二十六円、土地価格金二十三万六千三百八十七円に対する千分の三の金七百九円の合計金三千四百九十五円となり、昭和二十八年四月の同賃料額の改定により、家屋の同一価格に対する前同一割合の金額、金二十四円に右家屋の坪数を乗じて得た前同一の金額、土地価格金二十五万九千六百三十八円に対する千分の三の金七百七十九円の合計金三千五百六十五円となり、昭和二十九年四月の同賃料額の改定により、家屋価格金六十四万四千七百円に対する千分の三・七の金二千三百八十五円、金二十四円に対する右家屋坪数を乗じて得た前同一の金額、土地価格金三十四万八千八十六円に対する千分の三の金千四十四円の合計金四千百五十五円となり、昭和三十年四月の同賃料額の改定により、家屋の同一価格に対する同一割合の金額、金二十四円に右家屋の坪数を乗じて得た前同一の金額、土地価格金四十五万二千二百十五円に対する千分の三の金千三百五十七円の合計金四千四百六十八円となる。しかも被控訴人は右公定賃料改定の都度控訴人に対し賃料増額の申入をしていたものである。
と述べ、さらに、
控訴人の答弁並びに抗弁事実に対し、
一、別紙目録第一の(ロ)及び(ハ)の家屋は、昭和十六年十二月訴外鈴木兵之介が建築に著手したが、資材不足のため未完成となつていたものを、被控訴人が同訴外人から譲受け、昭和十九年八月訴外牧村志づ以に賃貸したもの、同第一の(ニ)の家屋は被控訴人が昭和二十五年五月訴外豊田金一郎より買受けたもので被控訴人が新築したものでない。同目録第二の(イ)ないし(ヘ)及び(チ)(リ)の各家屋は昭和二十四年十二月より昭和二十六年九月までの間に建築したもの、同第二の(ト)の家屋は昭和二十五年七月二十日建築したものである。しかも右(イ)ないし(リ)の各家屋は被控訴人が訴外豊田金一郎との共同事業として建築したるものである。同目録第三の(イ)の家屋は昭和二十年三月被控訴人が疎開後訴外佐野正綱に賃貸したが、同訴外人と前記目録第一の(ロ)の家屋の賃借人であつた訴外牧村志づ以とが互に住居を交換して入れ替つたので、訴外牧村にこれを売却したものであつて、被控訴人が自己使用の理由をもつて訴外佐野にこれを明渡させたものでない。同目録第三の(ロ)の家屋は、被控訴人がその賃借人たる訴外夏目延雄にこれを明渡させた上で訴外森居新次郎に売却したものでなく、訴外森居が賃借人のあることを承知して買受け、訴外夏目に移転料を支払つて移転せしめたものである。同第三の(ハ)の家屋は、訴外井上敏夫に明渡させた上で訴外日本銀行に売却したものでなく、同銀行の理事井上敏夫が賃借人として右家屋に居住中、日本銀行は行宅としてこれを買取つたものである。
二、終戦後のインフレーシヨンの影響によつて被控訴人もその生活を脅かされていたが、その上戦前から日本勧業銀行に対し債務を有し、又財産税納付のため多額の負債を生じたので、これ等の負債の整理及び日常の生活の資を得るため、前記目録第三の(イ)ないし(ハ)の家屋を売却したものであつて、しかも昭和二十三年頃はまだ貨幣価値が高かつたので、控訴人主張のように多額の剰余を得ることができなかつた。又前記目録第二の(イ)ないし(リ)の家屋の建築は、前述のように訴外豊田との共同事業であつて、建具、屋根葺等についての支払は家屋落成後にこれを売却して清算したもので、全く利益を得ることがなかつたものである。なお右家屋の敷地は被控訴人の所有でないから、これを他に売却したことはない。
三、控訴人主張のように家屋賃貸借の解約申入の正当事由は、事実審の口頭弁論終結の時まで存続することを要するものとしても被控訴人は今なお朝霞町においてその営業を継続していて、控訴人の本件家屋明渡の速かなることを待望しており、長男和善は杉並区役所退職後小型自動車運転の免許を得たが、疾患のため常に療養をこととし、労務に服しておらず、二女稜子は荻窪高等女学校卒業後、日本女子大学に入学、同大学卒業後最高裁判所事務総局秘書課に勤務し、被控訴人方より通勤しているものであつて、解約申入の正当事由は存続しているものである。なお被控訴人は鷺宮の家屋買受後同所に一時寿建設なる看板を掲げ、建築請負の連絡所としたことはあるが、ここで建築請負業を営んだことはない。
と述べた。
控訴人訴訟代理人は答弁として、
第一、請求原因に対し、
第一項の事実は認める。第二項の事実中被控訴人が従前東京都中野区天神町十九番地に居住し建築請負業に従事していたが、その後埼玉県北足立郡朝霞町に一部疎開したこと及び同町に別紙目録第一の(イ)の家屋を建築したことは認めるが、その余の事実は争う。第三項の事実は否認する。第四項の事実中本件家屋に控訴人と長男とが居住していることは認めるが、その余の事実は否認する。第五項の事実中被控訴人主張の日に同人から本件家屋の賃貸借解約の申入のあつたことは認めるけれども、その余の事実は争う。
一、被控訴人は従前居住していた東京都中野区天神町十九番地の家屋から荷物の一部を前記朝霞町に移して右天神町と朝霞町との双方の家屋を使用していたところ、その後天神町の家屋を弁護士佐野正綱に賃貸したが、被控訴人自ら使用する必要があるとて訴外佐野から右家屋の明渡を受けながら、昭和二十二年五月二十一日訴外牧村志づ以にこれを売却し、訴外牧村は従前被控訴人から別紙目録第一の(ロ)(ハ)の家屋のうちの一棟を賃借していたが、右天神町の家屋を買受けてこれに移転したため、訴外牧村の妹がこれを賃借居住し、他方その住家を明渡させられた訴外佐野は、同第一の(ロ)(ハ)の家屋のうちの一棟(訴外牧村志づ以の妹の賃借家屋でない方)を賃借居住するに至つた。なお被控訴人は右天神町の家屋を訴外牧村志づ以に売却した当時昭和二十二年四、五月頃、中野区鷺宮に同目録第一の(ニ)の家屋を新築して、朝霞町の家屋とこの新築家屋とを併せて使用し現在に及んでいる。したがつて被控訴人はその主張のように昭和二十年四月中に戦災を免かれるために朝霞町に疎開したものでなく、右天神町の家屋を任意に処分するために住居を移転したものに過ぎない。もし被控訴人が戦災を免かれるために疎開したもので将来帰京する意思があつたならば、終戦後右天神町の家屋を訴外佐野に賃貸したり、同訴外人からこれが明渡を受けながら訴外牧村志づ以に売渡したりせずに、自らこれに居住すべきであり、又訴外牧村志づ以の従前居住していた前記第一の(ロ)(ハ)の家屋のうちの一棟を、右牧村志づ以の妹に賃貸せず自ら使用することもできた筈である。さらに又昭和二十二年四、五月頃には前記第一の(ニ)の鷺宮の家屋が新築されていて、ここに被控訴人の家族が居住し、朝霞町の家屋も使用しているのであるから、他の家屋を使用する必要はなかつたのである。
二、前記朝霞町の家屋は昭和二十一年九月二十七日に新築された建坪十五坪二合五勺の門構の立派な建物であり、被控訴人の家族を十分収容できるものであつて、被控訴人主張のように古材をもつて建築したバラツク建物ではない。
三、被控訴人の長男和善、二女稜子が前記朝霞町の家屋に居住したことはない。したがつて同人等が同所から杉並区役所もしくは荻窪高等女学校に通勤通学した事実はない。仮りに同所から通勤通学したとしても、これに被控訴人主張のような長時間を要しない。右訴外和善が杉並区役所に採用されたのは昭和二十三年五月十七日であつて、和善、稜子等は昭和二十二年六月十六日から昭和二十四年十月十一日まで前記第一の(ニ)の鷺宮の家屋に居住し同所から通勤通学していたものである。
四、本件家屋は被控訴人自ら居住の目的で建築したものであると主張するけれども、控訴人が右家屋を賃借するに至つたのは、新聞の貸家広告を見て被控訴人に賃借の申出をしたところ、被控訴人は将来買取り得る能力ある人でなければ賃貸しないといつて、控訴人の資力を調査した上で不日買取るということで賃貸借契約が成立したものである。さればこそ、被控訴人は、昭和十七年末か昭和十八年早々控訴人に対し本件家屋の買取方を申出たが、価額の折合がつかずそのままになつていたが、その後昭和二十三年末頃また控訴人に対し採算がとれないから右家屋を買取るか又は賃料の値上をしてくれ、もしそのいずれにも応じられないなら家屋を明渡してくれとの申出でがあつたのである。本件家屋を被控訴人において自ら使用するため特に材質を吟味し、間取を考慮して建築した事実はない。被控訴人が他に売却した家屋の間取、材質もこれと同様である。
五、被控訴人は本件解約申入当時生活に困つていた事実はない。被控訴人は形式上は朝霞町に転出しているが、実際は前記第一の(ニ)の鷺宮の家屋で建築請負業を経営していて、多数の家屋を建築しては他に売却するいわゆる家屋の建て売りをなして多額の収益を得ている。(別紙目録第二の(イ)ないし(チ)の家屋)又解約申入前所有していた同目録第三の(イ)ないし(ハ)の家屋を他に売却して、多額の収入を得て裕福な生活を営んでいるものである。被控訴人が前記第二の(イ)ないし(チ)の家屋を建築するためその敷地を取得し、その地上に八棟の家屋を建築するについては相当の資金を有していたものというべきであり、仮りに自己資金を有していなかつたとしても、この資金を集めるだけの経済的手腕を有しているのであるから、その家族の生活を支持するに足りる収入が得られないことはない。因に右八棟の家屋及び敷地の売却価額は合計金五百万円以上である。被控訴人は前記第三の(イ)ないし(ハ)の家屋を本件解約申入以前に所有していたがこれ等の家屋を他に売却して多額の収入を得ている。被控訴人はこれ等の家屋を訴外日本勧業銀行に対する債務及び財産税納付のための負債の整理と生活の資を得るため売却したと主張するが、被控訴人の右訴外銀行に対する債務は金二万九千円、財産税納付金額は金五万四千円でこれを合算しても金八万三千円に過ぎず、しかも右第三の(イ)ないし(ハ)の三棟の家屋は昭和二十二年五月頃から昭和二十三年八月頃までの間に売却しているのであるから、この三棟の家屋の売却代金を右金八万三千円の支払に充当しても、なお多額の余剰金があつた筈である。被控訴人は解約申入前より引続き現在も所有している前記第一の(イ)ないし(ニ)の家屋の価額は相当多額のものであつて、右四棟のうち(ロ)(ハ)の家屋は昭和二十三年十一月八日に新築したものであり、少くとも右二棟を売却することなく保有していることは、被控訴人が生活に困つていないことを証してあまりある。
六、要するに被控訴人は本件解約申入当時には自己の住居及び営業のために使用すべき家屋(右第一の(イ)及び(ニ)があつたのであるが、もしこの二棟の家屋だけでは被控訴人の家族の住居及び営業に不自由であるならば、前記第一の(ロ)(ハ)の家屋を他に賃貸せずに自ら使用すれば、控訴人に対して本件家屋の明渡を求める必要はなかつたのであるから、被控訴人が昭和二十四年一月十八日に至つて本件解約の申入をなしたことは、新たに解約の事由が生じたのではなく、単に本件家屋を控訴人に賃貸していては採算がとれないため、これを処分して利益を得んとする意図に外ならない。
七、本件家屋には控訴人と長男一郎の外に控訴人の内縁の妻きねよ並びに使用人十二、三人が居住している。但し内縁の妻きねよは昭和二十二年八月控訴人と事実上の婚姻をなし、昭和二十九年三月まで同棲していたが、長男一郎(先妻の子)と折合が悪く一時別居しているものである。控訴人は終戦後水産業を経営し、昭和二十一年頃より雇人十二、三人を使用してこれに当らせていたが、取引上の信用と税金対策の関係から昭和二十二年六月十一日関東水産株式会社を設立した。しかしこれは従来個人名義で経営してきた営業を会社名義に変更しただけであつて、控訴人と使用人との関係は会社設立後も継続しているのである。就中訴外加藤アサノは昭和二十二年二月頃から、(昭和二十六年六月頃まで)訴外森宗十三也は同二十二年六月頃から、訴外浦村悦子は昭和二十三年四月頃から、訴外辻正気は同年末頃から、いずれも控訴人の個人の使用人として本件家屋に居住し、訴外森宗五十二外三名は同会社の役員として右家屋に出入し、その他外部外交係三、四名が出入しており、被控訴人主張のように控訴人父子二人が広大なる本件家屋を贅沢に使用しているものではない。しかも控訴人は本件家屋以外に自己所有又は賃借家屋を有せず、且つその営業による収入は生活を支える程度のものであり、外に資産はないので、直ちに本件家屋を明渡して他に移転することは困難である。
以上に述べた理由によつて被控訴人の本件賃貸借解約の申入は正当の事由がないから、本件賃貸借契約は終了したものということができない。
八、仮りに本件解約申入当時正当の事由があつたものとするも、元来解約申入の正当の事由は解約申入当時を基準として考慮すべきは勿論であるが、事実審の口頭弁論終結の時まで存続することを要するものと解すべきところ、被控訴人には右解約申入後に左記の事由が生じたから、本件解約申入は正当の事由を有しないことに帰したものというべきである。すなわち、
(一) 被控訴人は別紙目録第二の(イ)ないし(リ)の家屋をその備考欄記載のように建築してこれを他に売却もしくは賃貸しているが、このように数棟の家屋を新築し(その敷地も買受)他に売却又は賃貸することのできる資力があるならば、まず第一に自己の家屋を新築してこれに居住すべきである。正当の事由ありとするには単に自己使用のためのみで足りるのではなく、当事者双方の利害得失を考慮し終戦以降現下の住宅難、物価騰貴等社会的、経済的一般情勢を参酌し衡平の理念に照して決すべきである。しかるに被控訴人は現下の逼迫した情勢を省みず、自己の利益を追及するあまり本件解約の申入をしたものであつて、衡平の理念に反しとうてい正当の事由あるものということができない。
(二) 被控訴人は前記第二の(イ)ないし(チ)の家屋を売却又は賃貸して莫大の利益を得ているのであるから、その資力も漸次増大している筈である。
(三) 被控訴人の長男和善は被控訴人主張のように罹病したとしても、昭和二十六年三月三十一日自動車運転免許証を得ているのであるから、すでに健康を回復しているものである。
(四) これに反して控訴人の長男一郎は昭和二十四年一月頃より発病し、目下肺浸潤及び滲出性肋膜炎にて療養臥床中であり、控訴人もまた昭和三十年一月十三日突然喀血し、医師の診断の結果肺浸潤であることが判明し、控訴人の生活は極めて苦境に陥つているのである。
第二、第二次の請求に対し、
左記事由を附加する外、控訴人が第一においてすでに述べた事由によつて本件予備的請求も理由がない。すなわち、
(一) 本件家屋の一部の明渡を受けても、被控訴人がここで建築請負業を営むことは適当でないし、被控訴人は現に鷲宮の家屋(前記第一の(ニ))に寿建築事務所の看板を掲げて営業をしているので、本件家屋の一部の明渡を求める必要がない。
(二) 控訴人の長男一郎は病気で本件家屋に療養中であるから家屋一部の明渡も困難であるし、被控訴人の長男和善も病気中とあれば、同病者が同一家屋内で療養することは不適当である。
第三、第三次の請求原因に対し、
一、控訴人が昭和二十二年六月十一日関東水産株式会社を創立したことは認めるが、控訴人は戦時中大谷製作所を経営して軍需品製作等に従事していたが、終戦後は昭和二十一年頃より使用人十二、三名を雇入れて水産業を経営して来たところ、取引上の信用と税金対策関係から、これを会社名で経営することとした。会社名義で経営するようになつた後も個人営業の時と同一営業目的であり、営業用什器の購入、使用人の雇傭等をなさず、個人営業の時代と全く何等の変化はない。株主は会社設立に必要な最低人員を調えるために、控訴人の身内関係者に依頼し形式上の株主としたもので、これ等の株主は全然出資をなさず、控訴人が資本金の全額を出資した。会社の取締役八木沢清雄、同森宗五十二等は控訴人の義弟、監査役木部亀太郎、同平井和雄等は戦時中の控訴人の使用人であつたものであり、平株主である植田富夫は控訴人の義兄である。結局右会社は控訴人の個人営業を経営の合理化を図るために、控訴人の一族をもつて組織し設立した会社であつて、資本金の全額は事実上控訴人において出資し、その経営の実権は依然として控訴人が会社代表者として掌握しているのであるから、個人経営時代と何ら変つたところがなく、個人営業を形式上法人組織にしたに過ぎない。しかも前述のように使用人はすべて控訴人の雇人であつて、右会社が本件家屋を占有している事実がない。したがつて、本件家屋につき何ら転貸借の関係はないのであるから、無断転貸を理由とする被控訴人の本件賃貸借契約の解除の意思表示は法律上の効果を発生するに由ない。
なお訴外関東水産株式会社は昭和二十七年五月八日関東物産株式会社と商号を変更し、昭和二十九年五月東京都中野区昭和通三丁目二十二番地に移転した。
二、仮りに控訴人と右会社との間に本件家屋について、転貸借関係があつたとするも、控訴人がその営業を会社組織にしたことを、被控訴人は昭和二十三年頃から知つていて何等異議を述べず爾来数年に亘つて転貸を黙認していたものであるから、被控訴人が昭和二十九年六月二十二日に至つて控訴人に対し、無断転貸を事由として本件契約解除の意思表示をしたとしても、何等契約解除の効力を生じない。
第四、賃料及び損害金の請求について、
控訴人が被控訴人に対し本件家屋に対する昭和二十四年六月末日までの賃料を支払つたこと、右家屋の敷地が宅地九十九坪一合七勺であること、昭和二十五年度における右宅地の坪当地代(月額)金六円七十五銭、右家屋の賃貸価格が金五百十八円であつたことはいずれも、これを認めるけれども、被控訴人から家賃統制額改訂の都度賃料増額の請求のあつた事実は否認する。その余の被控訴人主張の事実は争う。
と述べた。
<立証省略>
理由
第一、第一次の請求原因について、
被控訴人が控訴人に対し昭和十七年八月二十三日その主張の東京都中野区天神町十七番地所在の本件家屋一棟を賃料一ケ月金二百十円、毎月末日支払の約にて、期間の定めがなく、賃貸したこと、その後当事者合意の上、賃料を昭和二十三年一月一日より一ケ月金五百円、同年九月一日より一ケ月金九百円、同年十一月一日より一ケ月金千二百円に、それぞれ増額したこと、及び被控訴人が昭和二十四年一月十八日到達の書面をもつて、控訴人に対し借家法第一条の二にもとずき、右賃貸借解約の申入をなしたことは、当事者間に争がない。
よつて被控訴人の右解約の申入が前記法条にいう解約申入につき正当の事由ある場合に該当するか否かについて審按するに、被控訴人が従前本件家屋より約二町を距てた東京都中野区天神町十九番地所在の家屋(別紙目録第三の(イ))に居住して建築請負業に従事していたことは当事者間に争なく、成立に争のない甲第十八号証の二、第二十号証、原審証人鈴木和善、当審証人鈴木兵之介の各証言、原審及び当審における被控訴人鈴木多一郎本人の供述によれば、被控訴人は今次戦争中昭和二十年四月埼玉県朝霞町に疎開し、終戦後も同地にとゞまり、昭和二十一年五月頃同町大字根岸に家屋(同目録第一の(イ))を建築居住していること、同地は小さな町で建築請負の仕事も尠なく、勢い東京都内に仕事を求める外はなかつたが、東京都内に通うには往復に相当な時間を要すること、本件解約申入以前、被控訴人の長男和善が、東京都杉並区役所に勤務し、二女稜子は荻窪高等女学校に通学していたが、通勤通学に片道約二時間を要したこと、右訴外和善が呼吸器病に罹つたことが、認められる。
しかし被控訴人主張のように訴外和善の疾患が右通勤に原因するものであることは、これを認めるに足りる証拠がなく、被控訴人が朝霞町に居住していては一家の生計を維持するに足る収入が得られず、又本件家屋は被控訴人において自ら居住する目的で、資材、間取等につき、特別の考慮を払つて建築したものである旨の被控訴人の主張事実については、前掲証人鈴木兵之介の証言及び前掲被控訴本人の供述中これに副うような供述があるけれども、当審証人夏目延雄、同森居信次郎の各証言、当審における控訴人大谷観一郎本人の供述、並びに後記認定の事実に照してこれを措信しがたく、他に右主張事実を認めるに足りる証拠がない。
しかも被控訴人が終戦後本件解約の申入をした昭和二十四年一月十八日以前に、東京都内に少くとも別紙目録第三の(イ)(ロ)(ハ)の家屋を所有していたこと、被控訴人が同第三の(イ)の家屋(被控訴人の疎開前の住家)を訴外佐野正綱に賃貸していたが、昭和二十二年五月二十一日これを訴外牧村志づ以に売却し、同第三の(ロ)の家屋を訴外夏目延雄に賃貸していたが、同年十二月二十日これを訴外森居信次郎に売却し、同第三の(ハ)の家屋を日本銀行理事訴外井上敏夫に賃貸していたが、昭和二十三年八月十一日これを日本銀行に売却したことは、被控訴人の認めて争わないところである。そして右第三の(イ)の家屋の売買については、控訴人は、被控訴人が訴外佐野に対し自ら居住する必要があるからとて右家屋を明渡させ、これを訴外牧村に売却した旨主張し、被控訴人は、訴外牧村と訴外佐野が互に賃借家屋を交換して入れ替つた際に売却した旨主張し、当審における控訴人、被控訴人各本人はそれぞれその主張に副うような供述をしているが、仮りに被控訴人主張のとおりであつたとしても、右家屋は被控訴人の疎開前の住家であるから、もし元の住居地に復帰することを切望していたとすれば、従来の借家人でない訴外牧村にこれを売却する筈がないものと思われるし、又同第三の(ロ)の売買については、成立に争のない甲第十七号証の一、二、当審証人夏目延雄、同森居信次郎の各証言、原審における被控訴人本人の供述を総合すれば、訴外森居信次郎は借家人夏目延雄の居住する右家屋を買受け、同人に金十二万円の移転料を支払つて立退かしめて、これに居住するに至つたもので、しかも訴外夏目は当時新宿十二社に別に家屋を所有していて主としてその方に行つていたことが認められるから、被控訴人において、もし欲するならば、右家屋を借家人でない訴外森居に売却するよりはむしろ、訴外夏目に若干の移転料を支払つて、これを明渡さしめ、自ら居住することも不可能でなかつたものと推測せられる。そして以上の三棟の家屋の売買のあつた昭和二十二年五月ないし十二月から本件解約申入の時までに、被控訴人においての元の住居地に復帰することを必要とする特段の事情の生じたことは、これを認めるに足りる証拠はない。仮りに被控訴人が前記第三者の(イ)もしくは(ロ)の家屋に自ら入ることが不可能であつたとしても、当審における被控訴人本人の供述によつて、被控訴人が右三棟の家屋を売却して少くとも金百万円を収得したことが認められるところ、被控訴人は、右家屋の売却は訴外日本勧業銀行に対する債務及び財産税納付のための負債の整理並びに日常の生活の資を得るためなされたものと主張するが、成立に争のない甲第六号証の一、二、第七号証の一ないし五及び前掲被控訴人本人の供述によれば、被控訴人の訴外日本勧業銀行に対する右家屋を共同担保とする債務は元金二万九千円であつて、被控訴人の弁済した金額は金三万五千円であり、又被控訴人の財産税の納付額は約金五万四千円であることが明らかであるから、右二口を合算しても金九万円を出でないものというべく、右家屋売買代金をもつてこれが支払に充当しても、なお多額の余剰のあつたことは、推認するに難くない。又被控訴人が本件解約申入当時その居住する朝霞町の家屋(別紙目録第一の(イ))の外に、東京都内に同第一の(ロ)(ハ)の家屋を有していたことは、被控訴人の認めるところである。
なお、右解約申入後少くとも、昭和二十四年十二月より昭和二十五年七月までの間に同目録第二の(イ)ないし(ホ)及(ト)の各家屋を建築してこれを他に売却したことは、これまた、被控訴人の認めて争わないところであり、被控訴人は右各家屋は訴外豊田金一郎との共同事業として建築したものである旨抗争するけれども、当裁判所が真正に成立したものと認める乙第十七号証の四(鈴木武義の陳述書)、前掲証人豊田金一郎の証言(一部)を総合すれば、右訴外豊田は被控訴人の甥でその大工弟子であり、昭和二十一年に大陸から引揚げて一旦郷里秋田に帰つたが、後に友人の大工を頼つて上京した者であることが認められるから、仮りに右建築が被控訴人との共同事業であるとしても、その主たる資力は被控訴人にあつたものと推認するのを相当とする。右認定に牴触する右証人豊田金一郎の証言部分はこれを措信しない。
そして前段に説示した事実に解約申入後における右の事情を参酌して考えれば、被控訴人は右解約申入当時において、相当の資産、信用と建築技術を兼有していたものというべきであるから、もし被控訴人が東京都内に復帰することを必要としたとすれば、その居住すべき家屋を建築することも必ずしも困難でなかつたことが認められる。
しかも控訴人において容易に移転し得べき所有家屋も借家も有していないことは、前掲控訴人本人の供述によつて認めることができる。もつとも成立に争のない甲第四号証、前掲被控訴人本人(原審)の供述によれば、本件解約申入後の昭和二十四年七月中、控訴人は被控訴人に対し右甲第四号証の間取図の外に数枚の家屋の間取図を書きながら、近くこのような家屋を新築する計画であるから、完成次第本件家屋を明渡す旨言明したことが認められる(右認定に反する前掲控訴人本人の供述部分は信用しない。)けれども、控訴人の右言明が、その真意にもとずくものであつたか否かは別として、かかる建築が実現せられていないことは本件弁論の全趣旨に照して明らかであるから、右の事実は前段認定を左右するに足りない。
以上認定の事実に徴すれば、被控訴人の本件賃貸借解約の申入は本件家屋の広狭、控訴人の家族の多寡等を審及するまでもなく、借家法第一条の二にいう解約申入につき正当の事由のあるものと判断しえないから、右解約の申入を前提とする被控訴人の本件家屋全部の明渡の請求は、失当として棄却を免かれない。
第二、第二次の請求について、
終戦後におけるわが国住宅払底の実情に鑑み、家屋の賃貸借全部の解除が認容しえない場合においても、当事者双方の住居必要の事情を彼此勘考して、契約の一部の解除、すなわち家屋の一部の明渡を認容することも稀ではなかつたが、本件においては前記第一に説示したように、被控訴人の右解約の申入は、控訴人側の事情をほとんど考慮することなく、その理由がないものと判定したものであるから、被控訴人の本件賃貸借契約の一部の解除も、その理由がないものと認め、被控訴人の本件家屋の一部明渡の予備的、(第二次)請求はこれを棄却すべきものとする。
第三、第三次の請求原因について、
成立に争のない乙第九号証の二(商業登記簿謄本)に徴すれば、控訴人が昭和二十二年六月十二日海産物の加工販売等を営業目的とする関東水産株式会社を設立(控訴人がこの会社を設立した事実は当事者間に争がない)したことが認められ、被控訴人が、控訴人において本件家屋を右訴外会社に無断転貸したことを理由として、昭和二十八年五月六日の当審における口頭弁論期日に控訴人訴訟代理人に対し、民法第六百十二条により本件家屋の賃貸借契約解除の意思表示をしたことは、本件記録により当裁判所に明らかな事実である。そして前掲乙第九号証の二、成立に争のない乙第二十五号証(定款)、甲第三十号証(会社登記事項証明)によれば、同訴外会社は資本の額を十九万五千円、額面株式一株の金額を五十円、発行する株式の総数を三千九百株と定め、控訴人外六名が発起人となり、控訴人が三千六百五十株を引受け、その残株を他の発起人六名が二十株ないし百株を引き受け、本店を本件家屋に置き、控訴人外四名が取締役、訴外木部亀太郎外一名が監査役となり、控訴人を代表取締役として、控訴人の個人営業とは別個に設立せられたものであることが認められる。そもそも家屋の賃貸借において、借主が個人であるか、或は財産関係、外部に対する責任関係等において全く態様を異にする株式会社であるかということは、当事者に関する重要な問題であつて、たとえ家屋賃借中の個人が自己の営業をそのまま株式会社組織に改めた場合だと云つても、自己が依然その家屋に居住して使用する外、株式会社の本店を置きそこで会社の営業をするというのは、一応は個人たる賃借人が株式会社をして同家屋を使用せしむること、すなわち転貸することであるとみるのが相当である。
控訴人は右会社は控訴人が従前経営していた水産業を取引上の信用と税金の対策関係から形式上法人名義としたものであつて、個人経営と何等変りがないから転貸ではない旨主張するけれども、控訴人が総株数三千九百株のうち三千六百五十株を所有していることは前述のとおりであつて、他の取締役その他の役員が控訴人の姻戚または元の使用人であり、控訴人が右会社の経営を主宰していることは、前掲控訴人本人の供述によつてこれを窺知することができるが、控訴人以外の株主、役員は単に氏名を貸しただけであるとか、株式の引受も仮空のものであつて、従つて利益の配当も役員報酬も支給することがないとか、会社設立の前後を通じて経営の実体は全く両者同一であるという如きことを認めるに足りる証拠も十分でない(かえつて控訴人は訴外森宗五十二外三名が訴外会社の役員として本件家屋に出入していることを自陳している。)から、控訴人個人の営業と訴外会社の営業とは、社会上経済上全く同一であるとみるに由ないものといわなければならない。よつて、控訴人がその賃借家屋内に自己が代表取締役となつた訴外株式会社の本店を置き、そこで同会社の事業を経営している(このことは控訴人も自認している)以上は、控訴人は本件家屋の一部もしくは全部を訴外会社に転貸したものと認めるにはばからない。
控訴人は、その営業を会社組織にしたことは被控訴人は昭和二十三年頃から知りながら、何等異議を述べず、爾来昭和二十九年六月二十二日まで数年間転貸を黙認した旨抗争し、当審における検証(昭和二十九年四月二十八日施行)の結果によれば、本件家屋の門柱に長さ約一尺巾約三寸の割合新しい木札が下つており、これに「関東水産株式会社」と記されてあることが認められるけれども、前掲被控訴人本人(当審)の供述によれば、右表札は最近に掲げられたものであつて、被控訴人は以前にはかかる表札を見ていないことが認められ、しかも控訴人提出援用の全証拠によつても被控訴人が控訴人に対し右転貸の事実を明示たると黙示たるとを問わず承諾したことを認めるに足りないから、右抗弁は採用の限りではない。
控訴人はまた、訴外関東水産株式会社は昭和二十七年五月八日商号を関東物産株式会社と変更し、昭和二十九年五月東京都中野区昭和通三丁目二十二番地に移転した旨主張するけれども、契約解除の意思表示後に右訴外会社の移転があつたからとて、該契約解除の効果を左右するものではないから、右主張も理由がない。
さすれば被控訴人の控訴人に対する本件家屋の無断転貸を理由とする契約解除の意思表示は右転貸を以て賃貸人に対する背信行為と目するに足らない特段の事情ありとも認められない本件にあつては、もとより有効であつて、右家屋の賃貸借契約は被控訴人主張のように、昭和二十八年五月六日かぎり解除となつたものというべきであるから、控訴人は被控訴人に対し本件家屋を明渡す義務あるこというまでもない。
第四、賃料及び損害金の請求について、
控訴人が被控訴人に対し、本件家屋に対する昭和二十四年六月末日までの賃料の支払をしたことは、当事者に争なく、控訴人からその後の賃料もしくは損害金を支払つたことの主張立証がないから、控訴人はこれが支払をしていないものと認めざるをえない。さすれば控訴人は被控訴人に対し昭和二十四年七月一日より本件賃貸借の解除となつた昭和二十八年五月六日までは賃料を、その翌七日より右家屋明渡済に至るまでは賃料相当の損害金を、それぞれ支払う義務あること勿論である。そして本件家屋の賃料が昭和二十三年十一月一日より一ケ月金千二百円の約であつたことは前に説示したとおりであつて、その額は、本件家屋が昭和十七年竣工、当初の賃料が一ケ月金二百十円であつたことは当事者間に争なく、これにもとずく昭和二十四年六月一日よりの適正賃料は一ケ月金千七百六十四円であることが各物価庁告示に照らし計算した上明白であるから、その範囲内のものとして差支えない。被控訴人は、家賃の停止統制額の改定の都度控訴人に賃料の増額を請求した旨主張するけれども、これを認めるに足りる証拠がないから、昭和二十四年七月一日より昭和二十八年五月六日までは前記一ケ月金千二百円の割合によつて計算すべきである。しかし家屋の賃貸借契約が解除となつた場合においての賃料相当の損害金は、その当時新たにその家屋を他に賃貸するとすれば、終戦後の住宅事情に鑑み家賃統制額の最高額をもつて賃貸しえたことは疑のないところであるから、本件賃料相当損害金の算定についても、家貸統制額の最高額によるべきが相当である。そして成立に争のない甲第四十一号証によれば、本件家屋の価格(固定資産税台帳に登録された価格、以下同じ)は、昭和二十八年度金五十五万六千八百円、昭和二十九年昭和三十年度は各金六十四万四千七百円、本件家屋の敷地である土地の価格(固定資産税台帳に登録された価格、以下同じ)は、昭和二十八年度は金二十五万九千六百三十八円、昭和二十九年度は金三十四万八千八十六円、昭和三十年度は金四十五万二千二百十五円であることが認められるから、昭和二十八年五月七日よりの家賃の統制額に代るべき額は、円未満を切捨て(以下同じ)一ケ月金三千五百六十五円(昭和二十八年四月五日建設省告示第四四四号により、純家賃額-同年度における本件家屋の価格金五十五万六千八百円の千分の三・七に相当する金二千六十円十六銭と金二十四円に右家屋の坪数三〇・二五を乗じて得たる金七百二十六円との合計金二千七百八十六円十六銭と地代相当額-同年度における右土地の価格金二十五万九千六百三十八円の千分の三に相当する金七百七十八円九十一銭との合計額三千五百六十五円〇七銭)となり、昭和二十九年四月一日よりの同統制額に代るべき額は一ケ月金四千百五十五円(昭和二十九年四月三日同省告示第三五一号により純家賃額-同年度における右家屋の価格金六十四万四千七百円の千分の三・七に相当する金二千三百八十五円三十九銭と金二十四円に右家屋の坪数を乗じて得たる金七百二十六円との合計金三千百十一円三十九銭と地代相当額-同年度における右土地の価格金三十四万八千八十六円の千分の三に相当する金千四十四円二十五銭との合計額四千百五十五円六十四銭)となり、昭和三十年四月一日よりの同統制額に代るべき額は一ケ月金四千四百六十八円(昭和三十年四月四日同省告示第三三八号により純家賃額-前同様の金三千百十一円三十九銭と同年度における土地の価格金四十五万二千二百十五円の千分の三に相当する金千三百五十六円六十四銭との合計額四千四百六十八円〇三銭)となる。
よつて被控訴人が控訴人に対し本件家屋の明渡を求め且つ右家屋に対する昭和二十四年七月一日より昭和二十八年五月六日まで一ケ月金千二百円の割合による賃料、同月七日より昭和二十九年三月三十一日まで一ケ月金三千五百六十五円、同年四月一日より昭和三十年三月三十一日まで一ケ月金四千百五十五円、同年四月一日より右家屋明渡済に至るまで一ケ月金四千四百六十八円の各割合による損害金の支払を求める限度において、本訴請求は正当であるけれども、その余の請求は失当であるからこれを棄却すべきものとする。
然らば原判決は一部失当であるから民事訴訟法第三百八十四条、第三百八十六条に則りこれを変更すべきものとし、訴訟費用の負担につき同法第九十六条、第八十九条、第九十二条、仮執行の宣言につき同法第百九十六条を各適用して、主文のとおり判決する。
(裁判官 齊藤直一 菅野次郎 坂本謁夫)